snowinbowls’s blog

日本のすみっこぐらし。映画は公開日に上映されないし本は発売日に本屋さんに並びません。

コーダとエール、両側から眺めて『コーダ あいのうた』『エール!』感想 *ネタバレあり

 

 

第94回アカデミー賞で作品賞、脚色賞、助演男優賞を獲得した『コーダ あいのうた』がDVD発売よりも1ヶ月以上も早くアマプラで配信されたので、こんなに早く見られていいのかなと思いながら鑑賞。

コーダのCODAとは〈Children  of Deaf  Adults=耳の聴こえない両親を持つ子ども〉の略であるらしく、今回初めて知った言葉だ。

主人公のルビーは4人家族で唯一耳が聞こえ、小さな頃から家族と社会との橋渡しを担ってきた。ここ数年、ヤングケアラーという言葉が知られるようになったが、ルビーもヤングケアラーに当てはまると思う。

漁師の父親と兄の船に朝3時に起きて乗り、働く。その後、学校へ。歌のレッスンが始まってからは放課後や休日も休む暇がない。クタクタで授業は居眠り、レッスンも遅刻ばかり。そんなルビーを見ていると、周りの大人達が身勝手に見えてくる。ルビーは頑張っているし、とてもいい子だ。なんでちゃんと見てあげないんだろう?

個人的に気になったのは母親の言動だ。家族の中で一番わかってない感が強い。耳が聞こえる、聞こえないの違いだけではない。一緒に船に乗ってないからなのか。母娘は反発しあうものなのか。母親自身の母娘関係が尾を引いているのだろうか。

この映画ではルビーと父親との結びつきの方が強く描かれていた。そういう演出にわざとしたのかもしれない。母親が、ルビーが生まれた時にショックに思ったことを話すシーンがあるが、それを踏まえても愛情が薄いのではないかと思った。まあ、ルビーもそれを知っていて「ダメな母親なのは耳のせいじゃない」なんて言っていたけれど。

一番残念だと思ったのは、発表会の衣装を買って来たところ。いくら自分のセンスに自信があったとしても、年頃の娘に勝手に服を買ってくるのはどうなのか。私だったら嫌だなと思った。娘の好みもあるだろう。どうしてルビーに選ばせてあげないのか。

ヤングケアラーというと、重荷を背負いすぎて身も心も削られ、孤独になってしまうという認識でいたが、ルビーの場合はわりとタフで、周りの人に恵まれていると思った。まず友達がいい子だ。音楽の先生も、戸惑いながらも理解してくれる。彼氏はちょっと頼りないけど、素直。きょうだいがいるのも幸せだと思う。お兄ちゃんはぶっきらぼうだけど、何がルビーのためになるか、結果的に家族のためになるか、きっと分かっている。家族を信じろって怒ってくれてた。両親はルビーに依存しすぎていたけれど、最後は手を放してくれた。

耳の聞こえない家族に囲まれて育ったルビーに歌の才能があるというのも、なんて運命なんだろうと思うが、それでもルビーにかけがえのない才能があってよかった。そうでなければ、あの家から出るのはもっと遅くなったか、ずっと長い間いることになったかもしれない。

ルビーがいなければ商売ができない、一家が食べていけないとなると、ルビーは家を出ることはできないだろう。個人的にはもう少しはっきりとした解決策があったらよかった。お金がないのに通訳をどうやって雇うのかとか、組合を作るのだって他の漁師さん達との話し合いや交渉が沢山必要だよねとか、今まで魚を買ってくれていた人達からの嫌がらせとかないの?とか、もやもやしてそれだけでもう一本映画が作れるのではないかと思うくらいだったけれど、あっさりなんとかするわ〜となって、ルビーは大学へ行くのだった。あれだけ悩んだのは一体何だったのだろう?まあ、うまくいったのならいいけれど。でも、友達がルビーの身代わりになるのもあまりよくない気がする。

両親が家族だからといって当たり前のようにルビーを使っていて、よくグレなかったよなあと思うし、ルビーが家を出られた時は開放感でいっぱいで、なぜかアナ雪を思い出した。エルサがお城を飛び出して、レリゴーを歌う場面、あの自我の獲得の喜び、似てるなって。別れの「愛してる」の手話のシーンも反抗期なら中指を立てているところだ。私にはそうも見えた。そんなことはルビーはしないのだけれど。

なんだか評判通りには感動できなくて、お父さんとのシーンは良かったけれど、最後はあの母親のいる家から出られて良かったなという印象の強いまま見終わってしまった。なので、リメイク元の『エール!』も見ることにしようと思った。

 

『エール!』は『コーダ』より7年も前に作られたフランス映画だ。大きな違いは制作国と、主人公の家が酪農家であること、兄ではなく弟がいること、好きな男の子との接近の仕方、そして最大の違いは、母親だった。

『エール!』の母親は表面上かなり『コーダ』の母親と似ている。スタイルの良い金髪美女。おしゃれな服を着て、父親との仲が良い。自己主張激しめで、世間ずれしている所がある。でも、『エール!』の母親の方が愛情深い。そして、娘を理解しようとする演出もきちんとされている。これこれ、これだよ、と思う。

『エール!』の主人公のポーラもルビーと同じように朝早くから家業を手伝う。その後自転車に乗ってスクールバス乗り場に行き、そこからまたバスで通学する。学校がとても遠いことがわかる。当然授業時間には眠くなる。だが、見た目は体格も良く、健康そうなのだけれど、今まで生理が来なかった女の子という設定。(ポーラは何歳なのだろう?)ここは『コーダ』とは違う。

フランスは(アメリカもだけど)日本人から見ると信じられないぐらい性に関してオープンで、好きな男の子と歌う曲の歌詞の内容もすごい。学生が歌う歌とは思えないが、そんな文化の違いも面白かった。

『コーダ』の漁業組合創設とは違い、こちらは父親が村長選挙に出馬するというまた大変な行動に出るのだが、なんとなくコーダのような深刻な感じはない。現村長は嫌な奴だが、耳が聞こえないからといって迫害されているわけでもなく、仲間もいて、かなりノリノリで選挙戦は進む。ポーラもサバサバした性格と面倒見の良さで、かわいそうな感じはコーダよりも少なく見えた。悩みはするが、気持ちが強いし切り替えが早い。あと、金銭的な困難の負担がゆるやかに感じた。ポーラがいなくなるとたちまち生活が困窮するということもなさそうに見える。その点は『コーダ』のルビーの方はシビアでかわいそうだった。

母親はポーラを赤ちゃん扱いしていたが、次第に子どもの成長を理解していく。ポーラが初潮を迎えたことや、ポーラの弟がコンドームのゴムでアレルギー反応を起こして倒れたこと、そうした子どもたちの身体の変化も転機であったのだと思う。

そして、『エール!』の母親は落ち込んでいる娘を外出に誘う。「2人で美容室に行かない?」って。一方的に赤いドレスを買って来たコーダの母親とは違い、コミュニケーションが心地よい。

そして、終盤のオーディション。

『コーダ』では「青春の光と影」を、『エール!』では「青春の翼」を歌う。どちらも青春と名がついているが、『エール!』の方が格段に歌詞がわかりやすい。客席に入って来た家族に手話で歌詞を伝えるという演出は同じなのだが、『コーダ』の歌詞はなんというか、詩的すぎて何を言っているかよくわからなかった。何度か聴くと、ああそういうことなのか、なるほどなと思うが、家族へのメッセージとしては、『エール!』の方がストレートに、ダイレクトに伝わる。同じ歌詞を何度か繰り返すのだが、それが強く相手に訴えかけ、届く。家族への愛と、それでも好きな歌を歌いたいという意志だ。

『コーダ』の「青春の光と影」は原題は「Both sides now」なのだが、雲についての抽象的な歌詞から始まり、詩心がない私には引っかかるものが少なかった。歌詞を改めて調べて、聴こえると聞こえないの両方の立場を歌っているのかも、とか、子どもから大人への変わり目の視点のことなのかと想像できたが、それがいきなりルビーの家族に伝わったとはあまり思えなかった。

ただ、今回レビューを書くにあたって、『コーダ』のサントラを聴いたのだが、何度も聴くうちにこの曲がとても好きになってしまった!うまいけれど、ものすごい才能というわけでもないよなあと思っていたルビーの声も、この曲にはぴったりに思える。透明感があって伸びやかで、素敵だ。Spotifyにも入っているので、おすすめします。

ポーラの声は深みがあって声量もあり、この先もっとうまくなるだろうと思わせて良かった。顔を見た時から、歌が上手そうだなと思った。口が大きくてしっかりした体。あと、2人とも根性と体力があるので、この先もきっとうまくやっていけると思う。

 

長くなってしまったが、『コーダ』も『エール!』もそれぞれ良さがあった。『コーダ』で腑に落ちなかった母親の態度は、『エール!』で解消された。きっと、『コーダ』は父親との関係が、『エール!』は母親との関係が主体なのだろう。助演男優賞を獲得した『コーダ』のフランク・ロッシの演技すばらしかったし、『エール!』の母娘関係の描き方も良かった。そう思うと、完璧な家族関係なんてないし、家族それぞれの想いがあるのだから、それらに納得するしかないのだと感じる。今回ふたつの映画を比較してわかったことや得られたものが確かにあり、リメイクというのも面白いものだなあと感じる。

あらためて、といえば、歌が聴こえるということは幸せなことで、愛する子の声をどんなに聴きたいと思っても聴けない人がいる。無音の世界、一瞬だったけれど映画で見て感じて、生まれた時からその世界が続いていると想像すると切なくなった。聴こえる、聴こえない、両方の世界があることを忘れずにいたい。

 

 

 

 

火がつけば燃えてしまう 映画『燃ゆる女の肖像』感想 *ネタバレあり

 

 
『燃ゆる女の肖像』(Portrait de la jeune fille en feu)2019年 フランス 120分

監督・脚本 セリーヌ・シアマ

主演者/役名 ノエミ・メルラン/マリアンヌ

       アデル・エネル/エロイーズ

       ルアナ・バイラミ/ソフィー

       ヴァレリア・ゴリノ/伯爵夫人

 

レンタル屋さんにディスプレイされていたジャケ写が美しかったのと、レビュー点数が4.1と表記されていたので借りてみる。

舞台は18世紀、フランス、ブルターニュの孤島。木製の小さな手漕ぎボートで海を渡るマリアンヌと船乗りたち。これは酔いそう。

船の揺れで落ちたキャンバスを取りに海へ飛び込むのに、靴も重いドレスも脱がないのは無謀だなと思ったけれど、その違和感こそがこの時代の社会を表しているのかもしれない。

船に乗っていた男は数人いたのに、屋敷まで荷物を運んでくれる男はいない。なんだか冷たい。そして、この先男性が全く出てこないまま物語は進む。終盤に少し出てくるだけ。この島に男性はいるのか?と不審に思うくらい出てこない。しかし彼女たちの生きている世界は間違いなく男性中心の社会で、表立っては決して目立つことはできないけれど、ひっそりと、確実に自分を生きている。そんな女たちの絆が描かれた作品だった。

 

マリアンヌは女流画家で、貴族の娘の嫁入りのための肖像画を描く仕事で島に一時的に滞在するのだが、望まぬ結婚に怒りを抱えるエロイーズには最初素性を隠して近づく。

モデルの観察のための視線を向けるマリアンヌと、その視線を不審に感じるエロイーズ、果たしてどこで恋愛になったのか、残念ながら私には感じることができなかった。好きな人を目で追ってしまうのと、絵の被写体を観察するのは確かに似た行為だが、好意があるかないかは本人達にしか分からない。

ふたりが惹かれ合う、もう少しはっきりとした描写があればよかったのになと思った。特にマリアンヌは観察から恋になったのはなぜなのか。見開かれた大きな瞳は強くて美しいが、感情を隠してしまい、エロイーズに対する恋心を読み取ることができなかった。

 

途中、ふたりの世話をしてくれていたメイドのソフィーが、夫人が留守の間に子どもを堕ろすことになる。あやしげな方法で中絶を試みようとするのにはハラハラした。結局は産婆さん?に処置してもらうのだが、その方法も演出も謎で怖い。中絶も出産も命に関わることなのに、あまりにも簡単に描かれている。堕ろしてすぐ元通りとはいかないと思うのだけれど、そこは昔の女のたくましさなのか。ソフィーは小さくて可憐に見えるけれど、したたかさと強さを感じる女性だった。

あと、生理痛に煎ったさくらんぼの種でお腹を温めるといいというのは知らなくて面白かった。日本だと小豆カイロのようなものかな。

 

主人公の2人が違うタイプの長身美人で、髪も肌も目の色も違って素敵だった。ドレスの色もきっと意味があるのだろう。はっきりとした色の2人に、ソフィーのやわらかい色が混じっていく後半は、見ているこちらの心も解けていくようだった。

ただ、当時の貴族の結婚はもっと若いうちに進めると思うのだけれど、エロイーズの年齢が高すぎる気がした。特に、姉の代わりという設定なら10代なのではないかと思う。数年後のシーンでちょうどいい年齢だと思った。マリアンヌは数年後の見た目が若すぎて違和感があった。

また、鑑賞前はこの映画はレズビアンのお話だと思っていたが、多分バイセクシュアルなのだろう。『君の名前で僕を呼んで』の時もそう思ったなと思い出す。

 

『燃ゆる女の肖像』というタイトル、「燃える」とは愛とか情念とかの比喩表現だと思っていたら、本当に火がついて燃える場面があって、しかも一度ではなかったのでびっくりしてしまった。火に慣れていない現代の自分を省みる。

 

この映画を見る少し前に、ネットニュースでフランスの女優さんがセクハラ映画界に見切りをつけて引退するという記事を読んだのだけれど、まさかこの映画のエロイーズ役のアデル・エネルだとは思わなかった。存在感のある、とても素敵な女優さんなので、この先の映画で見られないと思うと残念でならない。

この映画のように、映画に出ることで女性の立場を表現するという道はなかったのだろうか。今後、もしそういう機会があれば是非復帰して欲しいなと思う。

 

労働者、ときどきロバート・パティンソン 映画『ライトハウス』感想 *ネタバレあり*

 


ライトハウス』(The Lighthouse)  2019年 アメリカ 109分

 

監督 ロバート・エガース

脚本 ロバート・エガース、マックス・エガース

主演者/役名 ロバート・パティンソン/イーフレイム・ウィンズロー

       ウィレム・デフォー/トーマス・ウェイク

 

舞台は1890年代、ニューイングランドの孤島にやって来た2人の灯台守の物語。

まず画面の形に驚く。アナログテレビのような四角い画面。モノクロの、きっともの凄くこだわりのある画づくり。そして不穏な音響。最初は灯台のレンズが廻る音に聴こえたけれど、船の汽笛の音かもしれないし、吹きつける風の音かもしれない。

画面の狭さは見ているうちに気にならなくなって、いつの間にか忘れてしまっていた。見ているこちらも孤島に入り込んでしまったようで、今思うと怖い。

 

この映画を見るのに少し勇気と時間がかかった。

設定とヴィジュアルだけで精神力が削がれそうだから。覚悟して見たので意外と大丈夫だったけれど、もちろん想像を越えた内容なので、衝撃があった。

古参と新参の灯台守。古参のトーマスは軍隊の上官のように高圧的で口うるさい。ロバート・パティンソンが出ているから我慢して見ていたけれど、そうではなかったら見続けるのが苦痛な不快な状況が続く。若くて新入りだから仕方がないにしても、雑用と重労働、危険な仕事ばかりをさせられる。なのに肝心の灯室には鍵をかけられ、そこでの仕事は教えてもらえない。

この物語、普遍的な労働問題を考えさせられた。パワハラ上司が権力を握って肝心な仕事を独占している職場は数多ある。部下は痛めつけられるだけで仕事を覚えられないし、評価もされず病む。職を転々として、ただ穏やかに暮らすこともできない。

この灯台守の仕事は労働期間がはじめから4週間と決まっていて、その期間さえ我慢すれば帰れるし、普通よりも多いお給金が貰えるので我慢もするのだけれど、もちろん物語上帰れるはずもなく、いつ船が来るかも知れず、食糧も住居も失っていき、アルコールに溺れ、追い詰められていく。

時代的にも、海の仕事は現代よりも相当過酷で、体も心も壊してしまうのだろうなと思った。無線も出てこなかったので、通信手段は行き来する船のみなのだろう。

この主人公の2人、お酒を飲むと距離が縮まって休戦状態になるのだけれど、それ以外の時間はものすごい緊張状態で、上映時間の殆どを軽いヒステリーと、身体の奥底から湧き上がる笑いをこらえるせめぎ合いのような精神状態になって、自分でも何だこれと思いながら見ていた。

とにかく言い合いばかりしているふたり、古典演劇の役者かというくらい詩的な言葉回しで捲し立てるトーマスと、最初は無口だったウィンズローが次第に距離を縮め、混ざり合い、二人ともトーマスになり、結局もうひとりのトーマスにはなれなかった関係が興味深かった。

これだけ罵り合いをするとなると、洋画では「f◯ck」とか「f◯ckin'」という言葉をたくさん使うのに、それがなかった。国や時代で使われる言葉が違うんだろうけど、言葉を駆使して感情を伝える姿になんだか感心してしまった。

ウィンズロー役のロバート・パティンソン、口髭と格好と、不満を抱えた演技が上手すぎて、いつものイケメンロブじゃないと思っていたけれど、時々ハッとする美しさを見せる瞬間があって、やっぱりロバート・パティンソンだなって思った。トーマスにも何度かきれいな顔だと言われていて、(だってロブだから…)ってクスッとなった。

そういうトーマスも、やっぱりときどき格好いいウィレム・デフォーになっちゃうので、完全に狂った世界に飲み込まれずに済んで、これはお芝居なんだと、現実に戻って来られて良かった所だと思う。

この映画、いくつかの神話がモチーフになっているようで、大まかでも内容を調べて推察はしてみたのだが、不可解な描写が度々ある。神話も人魚もカモメも、海に関する人智を超えたものが人間を襲い、逃れることなどできない無力さからなのか、最後のウィンズローの表情は笑っているようにも泣いているようにも見えた。